アカデミーノミネートの邦画のうち、これだけ見ていなかったから、見に行った。神戸のミニシアター。平日だから客は少なかった。日曜に別のミニシアター(神戸はとにかくミニシアターが多い、助かる)に行ったら満席で見れなかったからホッとした。ミニシアターが満席なんてはじめての経験である。
映画は、とにかく素晴らしかった。
単調なはずなのに、一瞬一瞬が貴重で愛おしく、瞬きするのも惜しかった。こんな映画は初めてである。
平山の過去は、映画では全く描かれていないので、断片的な情報で観客の想像に任せてしまったところが、拍手喝采である。
この人はどうしてトイレ清掃員になったのか、なぜ風呂なしの古いアパートに住んでいるのか、なぜあそこまで植物を慈しむのか。
昔罪を犯したのだろうと想像する人もいる。私もそうではないかと思ったけれど、あのシンプルだけれどきらめく日常が、罪の後の罰だとは思いたくないという気持ちもある。
それとも、罪によって何もかもを失ってはじめて、大切なものに気付いたのだろうか。
ひょっとしたら、平山は生まれつき無口で謙虚だから、金持ちだろう父親の跡を継げず確執があるとか。
小さな日常にこそ幸せはあって、例えばいつもは見落とすような、すれ違う人の微笑ましさと冷たさと優しさ。そういったものをしっかり見て感じる、平山の目線が、羨ましく感じた。
平山の周りの人々もよかった。姪との息の合い方。同時に同じ動作を自然にやってしまう。そんな人が身近にいることのありがたみ。とてもいい子だと感じたけれど、母親は気づいていない。
仕事は適当で、きっと金も返さないだろうタカシはけれど、無邪気に絡んでくる障がい者には優しい。
カセットを盗んだアヤは返してくれたし、音楽を気に入り、平山と心の繋がりを感じただろう。
いつもの光景、いつもの人々。でも同じ日なんてないし、変わらないものなんてない。今日という日は返ってこない。
平山はその全てを愛しているのだ。
植物を、
朝の空気を、
カセットテープの音楽を、
輝くスカイツリーを、
フィルムカメラを、
誰かからのメッセージを、
人々の笑顔を、
木漏れ日を、
物語を、
二度と戻らないきらめく世界を。
こんな風に生きていけたなら、ではない。
あんな風に愛せたら。
彼の目線を借りて見る美しい世界は、今現実にも広がっている。
退屈な日々が好きになれる。それはかけがえのないこと。
いい映画との出会いにひたすら感謝した。